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しんゆりの歴史

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まちの歴史

先程のページで紹介した内容は、まちの歴史のほんの一部。こちらでは、更に詳しい歴史をご紹介します。

住民が主役の街づくり

新百合ヶ丘の開発を進めるためには農地をもつ地権者の協力は必要不可欠でした。当時の柿生農協の鈴木新之助組合長は、土地の売却後、金銭管理を怠った農家の悲惨な結果を例にあげ、組合員に対し「土地を決して手放してはならない」と伝えました。また、その一方で都市化への対応策の指導にあたってきました。

小田急電鉄の開発計画発表の直前、昭和43年5月、(財)協同組合経営研究所の一楽照雄理事長は、「近郊農村の村づくり-協同組合による農住都市の建設」という構想を発表しました。一般に、この規模の駅前区画整理事業の場合では、ディベロッパーが計画の立案から生産、リスク負担を請け負うため、駅前の一番いい敷地などのほとんどをディベロッパーが抑えてしまいます。そのため、地権者はまちづくりの主役にはなりません。

しかし、この「農住都市構想」は、農家の生活の安定を図り、住民が自主的に新しい地域社会をつくるというものです。具体的な内容は…

農住都市構想

  • ・農民がまちづくりに対し自主的に結集して集団的に取り組む
  • ・宅地を求める社会的圧力は時代の要請として積極的に受け入れ、良好な住環境をつくる
  • ・地元住民と新規住民の交流を通じて新しい地域社会を創造する
宅地造成の様子

といった内容であり、全国で大きな反響を呼びました。新百合ヶ丘は鉄道会社が街づくりを進めたのではなく、住民が主役となり、リスクを背負ってつくられた街なのです。

「農住都市」実現のために

昭和46年の新百合ヶ丘地域

「農住都市」を推進するために、柿生地区を中心に研究会や座談会等が実施され、「農住柿生百合丘土地区画整理組合準備会」が結成されました。しかし、専門的知識の不足が問題としてあげられ、それを補う研究機関として「社団法人・地域社会計画センター」が発足されました。

準備会は「農住都市構想」の実現には地元と行政が一体となった推進が必要と考え、川崎市に対して事業推進の積極的な協力を要請していました。一方、川崎市は将来多摩区を分区する予定であり、西百合ヶ丘地区を対象に各種文化施設を備えた行政の中心とする構想を進めていました。市がこの構想を準備会に示すと、準備会は地元と行政が一体となって事業を推進したいという考えのもと、市との協同開発に合意しました。

昭和49年5月、地権者・小田急電鉄・市の関係局員を構成員とした「百合丘南部地区総合開発協議会」が結成されました。これは官民が協力して行うパートナーシップ型街づくりのはしりであり、大きな注目を集めました。一方で、各方面から「環境破壊につながる」「地元商店街にとって死活問題だ」等の反対意見や注文が多く寄せられました。しかし、当時の川崎市の伊藤市長は副都心づくりに意欲的であり、日経新聞のコラムでは「…市としては、カネを思い切って出す代わりに、オープンスペース、公共用地、緑について厳しい注文をつけ、農住都市ならぬ『住住都市』の愚を繰り返さないつもり」と述べています。

官民協調の街づくり

そして、昭和49年6月、小田急多摩線が開通、新百合ヶ丘駅が開業したことによって、街づくりに対する早急な取り組みが求められることになりました。基本構想や周辺住民の意見・要望を満たすべく詳細な事業計画が検討されましたが、その結果、区画整理によって土地所有者の敷地面積が減少する割合が50%を上回り、地権者間の合意の上限を超えることが判明しました。

このような事業推進の根本的な問題を解決するために、都市計画事業として区画整理を実施する案が浮上し、同年11月に協議会は川崎市に都市計画事業への採用を陳情しました。そして、川崎市は協議会からの陳情に応え、都市計画事業として実施するための手続きを進め、市の現地事務所「百合丘南部地区開発事務所」を設置しました。これによって、官民協調の事業推進体制が整ったのです。

開業当時の新百合ヶ丘駅

美しい街を目指して

デッキの工事の様子
昭和50年の新百合ヶ丘地域

区画整理の基本設計は、「社団法人・地域社会計画センター」の創設と共に、同センターによって進められました。土地利用計画としては、行政センターや駅前商業地、小学校等のほかに、「農住都市」にふさわしい集合農地や共同住宅地も計画されました。また、交通計画では、幹線道路(万福寺王禅寺線)を軸として、集中交通量を処理するために段階的道路構成や、駅前のターミナルも設置、さらにこの駅前デッキと歩行者路・緑道・公園を結ぶ「緑のネットワーク」の形成も考えられました。

このような準備作業の中で実施された調査のひとつに、商圏調査があります。この商圏調査は、区画整理後の商業核形成における住民の意見や要望の反映及び地元商業との共存を目的としたものです。向ヶ丘遊園から町田に至る地域及び、多摩ニュータウンと平尾団地などの住民1045名を対象に個別面接調査等が行われました。その結果を基に、商業核に立地可能な施設規模・業種構成の予測をし、更に駅周辺の街づくりに望まれる施設内容を打ち出しました。このように、区画整理前から「まちづくり」の視点にたったということは、当時非常に珍しいことであり、新百合ヶ丘の開発の特徴のとも言えます。

また、「農住柿生百合丘土地区画整理組合準備会」は、周辺住民の意向を計画に組み入れるために、昭和48年に駅より半径1キロの範囲内の町内会・自治会・商店会を対象に、数回にわたって話し合いを進め、そこででた意見や要望は、計画づくりになるべく反映させていきました。

そして、昭和51年の5月に基本計画がまとまり、周辺住民に対する説明会が開催されました。
基本計画の内容は…

  • ・緑豊かなまちの創造
    (緑のネットワークを形成し、将来は地区面積40%以上を「緑の自然的空間」として確保する)
  • ・安全で快適な歩行者路
    (人と車の動線を分離し、歩行者専用路網を形成)
  • ・総合的な土地利用計画
    (「副都心」としての行政管理機能や公益施設・住宅施設を計画し、多様な機能を適切に配置する)

となっています。
同年8月には事業に関する都市計画決定が川崎市都市計画審議会で承認されました。総合的な土地利用が必要となったということで、地権者個人個人で対応するよりも、地権者の中心となるような組織を求める声が高まり、昭和56年7月には「新百合丘農住都市開発株式会社」が設立されました。

街づくりへの熱意

基本計画が定まり、昭和52年5月に「新百合ヶ丘駅周辺土地区画整理組合」の設立総会が開催され、新百合ヶ丘駅周辺の区画整理事業は、組合施行の都市計画事業として同年にスタートしました。しかし、従来の区画整理後の土地利用が各地権者の裁量に任されているために、ばらばらの上物建設などによってせっかくの環境が壊されてしまう例が多いことから、区画整理組合はその失敗を起こさないためにも市に陳情書を提出しました。

この陳情書に込められた地権者の街づくりへの熱意を受けて、市からは「上物建設マスタープラン」が発表されました。このマスタープランは地域社会計画センターによって作成され、「緑ゆたかな街づくり」、「集合農地活用」などの9つの指針より構成されています。

昭和56年には「新百合ヶ丘農住都市株式会社」が設立され、農家地権者の上物建設や地域社会の運営と管理が可能となりました。

そして、上物建設マスタープランの実効性が問われる時期にはいった昭和57年7月1日には麻生区が誕生し、「新百合ヶ丘駅周辺広域的街づくり推進協議会」が発足しました。これは「百合丘南部地区総合開発協議会」の機能を具体化し、地権者と市職員に加えて周辺住民と商業者も含めた広域的な調整・協議の場としてつくられたものです。

昭和55年の新百合ヶ丘地域

また、川崎市は昭和58年に市の長期構想「2001かわさきプラン」を策定発表し、この中で新百合ヶ丘駅周辺地区を川崎市の新都心として位置づけました。これによって、区画整理後の上物建設や管理運営が更に重要視され、昭和59年に、より詳細な「第2次上物建設マスタープラン」と「商業・業務マスタープラン」が街づくり協議会で承認されました。

芸術のまち構想

工事中の家屋移転

昭和59年4月5日に7年間の工事期間を経て、都市の基盤整備が終わり、昭和61年3月に「財団法人川崎新都心街づくり財団」が県知事の認可により設立されました。

この財団法人は麻生区を対象に、街づくりに関する情報提供、調査研究・講演会の開催、環境整備、文化活動の推進等を事業目的としています。この街づくり財団と、先に設立された「新百合ヶ丘農住都市株式会社」がコミュニティ形成の要になると期待されました。

同年に計画された麻生スポーツセンターを皮切りに、文化・情報・芸術関連の活動拠点としての整備が進められていき、

昭和63年には「横浜放送映画専門学校」(現 日本映画学校)が、平成1年には「東京声専音楽学校」(現 昭和音楽芸術学院)が開校し、集合住宅や金融店舗などの建設も進み、次第に都市としての輪郭が出来上がっていきました。

このように整備が進むにつれ、川崎市は新都心のアイデンティティとして平成3年に「芸術のまち構想」を発表しました。

昭和60年の新百合ヶ丘地域
平成10年の新百合ヶ丘地域

小田急ショッピングプラザやイトーヨーカ堂、小田急OXなどの商業施設が開業し、新百合ヶ丘地区の街づくりは順調に進んでいきましたが、平成6年に大型商業施設のテナントとして決定していた西武流通グループが経営環境悪化のために撤退を表明したため、新たな核テナントの検討が必要になりました。

新百合ヶ丘農住都市株式会社は、新テナントとして㈱ニチイ(後の㈱マイカル)と㈱十字屋を提案し、街づくり推進協議会によって承認され、両社に決定しました。十字屋は都市化型百貨店として地区の核店舗に「新百合ヶ丘ビブレ」を出店することになり、同施設にマルチシネマを導入することで、市が進めようとしている「情報・映像文化の街づくり」構想の一端を担うものとしています。その後、「新百合ヶ丘OPA」が開業し、地域の人々に高品質・高感度・高鮮度の専門店ゾーンを提供しています。このOPAの上層階には地域密着型コミュニティホテル「ホテルモリノ」がつくられており、80室の客室とコンベンションルームの他に、和・洋・中のレストランが備わっています。

平成3年に市が発表した「芸術のまち構想」に沿って、平成7年度から「しんゆり芸術フェスティバル」が始まりました。これは、若手映像作家の作品やコンピューターアートを紹介する「しんゆり映画祭」や、芸術作品の展示販売や実演でアーティストと市民が交流を深める「しんゆりアート市」が開催されるものであり、平成9年5月には神奈川県で初めて文化庁の「文化のまちづくり事業」に指定されました。その後も多くの芸術祭やイベントが開催され、芸術のまちとしてのブランドを着実に確立していきました。

住み心地のよい街づくり

新百合ヶ丘の特徴は、何と言っても「住民が主役の街づくり」を進めたという点です。住民の意見や要望が反映されたからこそ、現在の街並みや生活の利便性向上が実現出来ました。「農住都市」の提唱以来、新百合ヶ丘は今後も「住み心地のよい街」へと発展していきます。

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