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しんゆりの歴史

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まちの歴史

昭和49年6月に開業した新百合ヶ丘駅。現在は緑あふれる芸術の街となっています。しかし、この新百合ヶ丘という街が出来上がるまでには、沢山の課題がありました。ここでは、意外と知られていない「まち」の歴史を見てみましょう。

昔の川崎市

昭和30年代~40年代、当時は農村地帯が無秩序に宅地開発されていく「スプロール化」が加速していました。川崎市にもその影響は及び、日本住宅公団による百合ヶ丘団地の開発をきっかけに民間開発業者の進出が相次ぎ、市の人口は大きく増加しました。

農住都市構想

昭和43年8月、小田急電鉄は百合ヶ丘-柿生間に新駅をつくり、これを起点に多摩ニュータウンまで約10キロの多摩線を新設し、沿線のスプロール化を防ぐ開発計画を発表しました。この新駅というのが「新百合ヶ丘駅」です。

開発を進めるためには農地をもつ地権者の協力は必要不可欠でした。小田急電鉄の開発計画発表の直前、昭和43年5月、(財)協同組合経営研究所の一楽照雄理事長は、「近郊農村の村づくり-協同組合による農住都市の建設」という構想を発表しました。この構想は、農家の生活の安定を図り、住民が自主的に新しい地域社会をつくるというものであり、全国で大きな反響を呼びました。

地権者と行政が協力する街づくり

「農住都市構想」の実現には地元と行政が協力して事業を行う必要があるとし、昭和49年5月、地権者・小田急電鉄・市の関係局員を構成員とした「百合丘南部地区総合開発協議会」を結成しました。

また、川崎市は昭和58年に市の長期構想「2001かわさきプラン」を策定発表し、この中で新百合ヶ丘駅周辺地区を川崎市の新都心として位置づけ、商業・行政の拠点を含む複合的な都市づくりを目指しました。

開業当時の新百合ヶ丘駅

美しい街を目指して

昭和59年4月5日に7年間の工事期間を経て、都市の基盤整備が終わりました。その後は川崎市によって麻生スポーツセンターが整備され、株式会社小田急情報サービスがCATV放送を開始しました。また、「横浜放送映画専門学校」(現:日本映画大学)、「東京声専音楽学校」(現:昭和音楽芸術大学)が開校するなど、文化・情報・芸術関連の活動拠点の整備が進むにつれ、川崎市は新都心の新しいアイデンティティとして平成3年3月に「芸術のまち構想」を発表しました。

現在も、「しんゆり芸術フェスティバル」、「しんゆり映画祭」、「しんゆりアート市」等の芸術祭が開催され、新百合ヶ丘は芸術のまちとしてのブランドを着実に確立していきました。

新百合ヶ丘‐発展の歴史

下の地図は、新百合ヶ丘の発展の歴史を示したものであり、建築物の増減が一目で分かるようになっています。
ぜひ古いものと新しいものを比べて見てみて下さい。

1971年の土地利用
1990年の土地利用
2008年の土地利用
  •  黄色:住宅
  •  赤:商業
  •  濃いオレンジ:行政機関
  •  オレンジ:教育文化施設
  •  ピンク:医療機関
  •  紫:オフィス
  •  緑:公園・運動場
  •  グレー:仮建築(倉庫、鶏舎等)

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